◆はじめに
昭和30年 (1955年) 第6回全国植樹祭開催の大衡村に昭和天皇が来村され、植樹祭の土地を「御成山」と命名された。 その後、平成元年昭和天皇ご在位60年を記念に「昭和万葉の森」と銘々された。その土地を守護し、来村する方々を御守りする御宮が大衡八幡神社(塩浪八幡神社)であります。 大衡八幡神社(八幡宮・八幡社・八幡さま)の御祭神は応神天皇とする神社で、全国に約44000社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)が総本宮であります。 宇佐神宮は亀神2年(725年)に造立され、皇室も伊勢神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)としてご崇敬される神社で、御祭神の応神天皇(誉田別尊)のご神霊は571年欽明天皇の時代に宇佐の地にご示顕(じげん)になり、天応元年(781年)「護国霊験威力神道大自在王大菩薩」の加号を朝廷から授けられ、八幡神・八幡大神・八幡大明神・八幡大菩薩とも云われる神様であります。 大衡八幡神社は仏教文化の八正道を大事にした天台宗・真言宗の平安仏教と密接な関りがある神仏習合の社であります 八正道(はっしょうどう)とは ◇正見 正しいものの見方考え方を持ち、物事をありのままに見る
応神天皇の御牌所は曹洞宗の神応寺にあると伝られており 大衡八幡神社の跡地(大衡字松本)に現存する曹洞宗昌源寺は櫻木家の先祖三明院昌元(昌源)が建立したのもで、その時代の歴史感があると思える。
◆大衡八幡神社のご創建について 大衡八幡神社(塩浪八幡神社)のご祭神は、1544年(天文13年)宮城県黒川郡下草を治めていた黒川景氏の次子大衡治部大輔宗氏(おおひらじぶのだいゆう むねうじ)が塩浪館(越路館とも呼ばれた)を築城のおり本丸内に勧請された。 1590年(天正18年)豊臣秀吉の奥州仕置により塩浪館が落城しご祭神(応神天皇)は大衡字松本(現在の昌源寺)の場所に移設され その後現在の場所に移築し跡地に昌源寺を建立された(封内風土記)
大衡城 本丸のご祭神
誉田別命 (八幡大菩薩) 天之御中主命 (妙見菩薩) 白山比咩大神(白山権現) 天照大御神
◆天台宗本山 修験僧 快真僧の着任について 天正13年、伊達藩の祈祷師である本山修験宗 総本山京都聖護院の良覚院修験の快真が大衡村松本に移住した。寛永8年(1631年)良覚院快真導師の嫡子である有真は伊達藩主忠宗に見い出され還俗(僧籍をはなれ俗界にかえること)を命じられ戸田と名乗り、名を定隆と改め家格着座・400石を与えられ 19歳に大衡村竹之内に屋敷をかまえ近習いからスタートした 戸田定隆氏は慶安2年(1649年)から承応5年(1655年)の間に御小姓頭を勤める主君側近となり黒川郡内の神仏にも多大なる貢献をした人物である (大衡村誌 記) ◆戸田長五郎定隆・勘太郎親子について 寛永12年 戸田定隆は、戸田長五郎定隆と改名し(1655年44歳で帰幽)位牌寺の昌源寺に寺禄を奇進した 貞享5年、戸田定隆の子、戸田長五郎勘太郎は塩浪八幡宮(現 大衡八幡神社)に供物・太鼓を奉納した (太鼓は神社で保存) また元禄10年供科として祭田350文の土地(一部櫻木家の土地として管理)とご神体(白山権現・妙見菩薩・天照太御神)を寄進し,村人の太鼓達の神仏信仰の基を築いたと伝わる
◆社家の櫻木家先祖の修験 三明院昌元(昌源)導師について 戸田長五郎定隆氏と同じ時期に社家の先祖である良覚院弟徒の三光院(三明院)昌元(昌源)が、旧大衡村の初代宮寺の導師(別当)として仙台より大衡の松本屋敷に移住した。 大衡村衡下地区松本の松本屋敷の宮寺(八幡宮・昌源寺等管理)に任じられ着任した。三明院昌元(昌源)導師以降、三明院正圓、三明院有観、三明院光秀、三明院宥昌、三明院清英、三明院善〇、三明院秀坊、三明院正善、三明院宥観、三明元歓 三明院元詠(元諄) 三明院肥内と明治の初期まで医薬・祈祷の修験僧13代続き、大衡村大衡字松本屋敷 に(現在の遠藤幸一宅地)明治の初期まで住んでいた。 ※神職宅に保存する三明院昌元の免許状や社家の墓石、大衡村人数帳等で窺い知ることが できる
昭和57年7月発行の大衡村村誌に大衡村出身の布施千造氏著書の内容が次のように記載されている。 「1772年の別当三明院秀坊の時より1780年の間、無住となり、御神体は地主横橋忠三郎宅に四十年余り保管し、1818年(文政元年)良覚院弟徒三明院正善が八幡神社を再興し、ご神体を神社に収めた。」と記載されている。史実に記載されていない内容を下記に追記します。 「社家の記録では、当時 大地震・伝染病・飢饉等で餓死する人がかなりの人数発生し、それを救い鎮めるため京都・熊野・伊勢祈祷に出立したが、旅の途中で伝染病を患い帰幽した」との記録が残されている また 戸田長五郎定隆氏が大衡の楳田地区にあったお寺を再興するよう命じられ、新寺の名称を「昌源寺」とされ、曹洞宗祖の”源”に因み、櫻木家の先祖 三明院昌元も三明院昌源と改名した。
三明院昌元(昌源)の初代の先祖は、大崎藩の殿様の姫君に仕えた武士から始まり、戦乱が続く時代を僧侶や修験に身分を変えながら52代続いた。 53代目に天台宗の僧侶として地位を高め、63代目の権大僧都 元詠法師(三明院元諄)が、明治三年「神官願い」を明治政府に出し、櫻木元詠として神官の道を歩むこととなる 明治以降、現在の昌源寺住職の高橋という苗字は、櫻木元詠の子である櫻木肥内の妻の旧姓高橋という苗字をつけ、昌源寺の高橋恭諄先生の諄の文字は三明院元諄の一字を与えられた。三明院家が神官としての道を進むため、住居も松本屋敷から中名屋敷に移動し櫻木と改名し「櫻木米穀店」を営み、神社の護持に努めている
◆宮司の先祖 権大僧都 元詠法師の神官願い 大衡村は、明治17年四村(駒場村、大森村、大瓜村、奥田村)の合併された村であります 近世の幕藩体制社会の成立に伴い、幕府・藩の宗教政策により、修験は村に定着せざるを得なくなり、仙台藩領内には、享保年間 (1716年ー1735年)におよそ1681人の修験者がいたといわれている。村々に定着した修験は、修験院として道場を構え不動明王を祀って祈祷や呪術を行い、神仏の祭りを司り講の導師を勤めるなど、村人の信仰生活の面に密接な関りを持ち大きな影響を与えてきたと伝わる 仙台藩の当山派修験は古川の古川寺の統制下にあり本山派修験は仙台城下の良覚院の支配を受けていました。宮城県では、修験者のことを法院(ほういん)と呼び、この呼称は明治の神仏分離以後も神官に対して用いられておりました。明治2年12月、日本の外事局に本山流修験 三明院元詠(社家の櫻木元詠)名で「八幡神社に復職願」を提出し、神官になることが許可され仏の道から神への道へ転身した。(復帰願いは社家に保管されている) 明治4年廃藩置県が行われ仙台藩から仙台県に変わり翌5年に仙台県から宮城県に改称し、その年に修験道廃止令で当時の修験者達が、国から住職になるか、神職にあるか、廃業にするかの選択が求めらた時代でありました
◆4村 (大衡村・駒場村・大森村・大瓜村)連合の村社 明治6年3月大衡八幡神社は、大瓜の貴船神社と同じく村社に列せられ、明治11年大衡村と大瓜村の連合村が発足し、さらに明治17年に四村(駒場村、大森村、大瓜村、大衡村)の連合村が成立した時より、連合村の村社に列せられた。当時大衡八幡神社より上位の郷社貴船神社が駒場村に鎮守されていたが、政治の世界で大衡八幡神社が村社となり、当時郷社の神職が変えられたという伝えもある。明治41年12月21日に旧大衡村の九社を合祀し、現在相殿神として祀られ現在に至る
◆大衡八幡神社の相殿神
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